べかおです。
いやークロージングトークを終わりまして。ホッとしました。
初の2劇団が優秀劇団。おめでとうございます!よかったです、ほんまに。うちはないなあ、と思いながらも、ちゃんと結果が発表されるまでは落ち着かないものですな。結果が出たあとも、どういう顔をして人前にいればよいのか、変に演技してしまったし…。人間て面倒くさいですね。まあまだ、劇評ブログが2つと、会議が残っています。最後までしっかり努めます。コトリ会議さんもあと2ステージ、台風に負けるな!
さて、應典院について振り返るのは結構クロージングトークでしてしまったので、あれですね。どうなんやろ、まあコレクトエリットが今後また應典院でやれることはないと思うので、なんたってやっぱりうちお金ないんですよね…。またイヤな話だ、すみません。でもだから、本当に今回こういう形で公演できたのはとても幸福なことでした。金さんが前回space×dramaに参加したときは誰とも交流を持てなかったけど今回は出会いがあった、という言葉も嬉しかった。space×dramaが今後どういう展開をするのか、楽しみにいる部分もありつつ、このまま、ひっそりと、知っている人は知っているというカタチで祝祭がつづいていくのも悪いことではないな、とも思っているのです。開かれてほしいといろいろ書いたりしてきましたが、変化というのは時として痛みも伴いますからね。変わりたくない、というのも正しい意見なのだと思うのです。まあ、ちょっとずつ、ちょっとずつ、確実になんらかの変化はあるでしょうけど。
さてさて、これどうやって終わろうかな、と考えていたのですが、最後に秋田住職の「葬式をしない寺」から、印象的だったところの引用をして終わることにしました。ちょっとながいですが、、、しかも文頭は秋田さんが引用した文章から入ります。P.106の最後の行、南雲由子さんという方が報告書に載せていたあとがきからーーー
「……私は『ここ』にいて、『そこ』は別世界。私は『そこ』が何となく怖い。しかし、『そこ』を否定はせず、ただ強烈に知りたいと思う。そして、『そこ』は『ここ』ではないが、『ここ』は『そこ』になる可能性を内包している。
言い換えると、『そこ』を思う感覚は、未知の場所へ旅に出ることと似ている」
「ここ」と「そこ」の関係は、個人間だけでなく、社会や世界の混沌とも無関係ではありませんでした。二〇〇一年、ニューヨークで同時多発テロが発生します。大国支配のグローバリゼーションは、異文化や異民族、異言語の境界を壊し、文明間の対立や格差を生み出しました。宗教戦争とまで煽られて、胸が痛みました。
「そこ」は絶望的なほど遠い。だから、わかりやすさに逃げ込むのではなく、敢えてわからなさを手掛かりにして、そこから自他の関係や社会とのつながりをもう一度問い直す。「対話としてのアート」には、正解とか結論がありません。勝者、敗者もいない。あるのは、わからなさを共有しながら、なお互いを信頼できる関係の深さだと思います。
それは、私たちの社会には最初からわかりやすいものなど何もない、と現実を揺さぶりながら、わかりあえないが、しかしなお、わかりあいたいという希望の物語を紡ぎ出そうとしていたのです。




